東京地方裁判所 平成6年(ワ)1734号 判決 1996年10月14日
原告
古月輝久
右訴訟代理人弁護士
鈴木牧子
被告
江東運送株式会社
右代表者代表取締役
町田恒信
右訴訟代理人弁護士
伊藤憲彦
主文
一 被告は、原告に対し、金六九万八〇七三円及びこれに対する平成六年二月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを二分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。
四 この判決の主文第一項は、仮に執行することができる。
事実
第一当事者の申立
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金一〇四七万六七二五円並びに内金六九三万二〇五四円に対する平成六年二月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員及び内金三五四万四六七一円に対する本判決確定の日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 被告は、一般区域貨物自動車運送事業、油脂類及び自動車用品販売等を業とする会社である。
2 原告は、昭和五七年一月ころ、被告との間で、千葉県市川市<以下、略>所在の被告ローリー部に勤務することを内容とする契約を締結した(以下「本件契約」という。)。
3 被告の従業員に対して適用のある被告就業規則は、次のように規定している。
(五条・通常の労働時間)
従業員の就業時間は、拘束八時間、実働七時間、休憩一時間とし、午前八時から午後四時までとする。
(一二条・休日)
休日は、日曜日及び週休二日制年間一二(ママ)日、国民の祝日、メーデー、年末年始一二月三一日から翌年一月三日までの四日間とする。
(一三条・年次有給休暇)
(1) 一年間勤続し、全労働日の八割以上出勤している者は八日間
(2) 勤続二年以上の者、一年につき一日を加算する。ただし、総日数二〇日を限度とし、算定期間は入社日より翌入社日前日までとする。また、入社日より六ヶ月勤続で九割以上出勤の場合は四日の有給休暇を与える。
(一四条・有給休暇の届出)
年次有給休暇を利用する者は、少なくとも前日の午前中までに主管者に届出なければならない。
(二一条・賃金支払日)
賃金は、毎月末日締切とし翌月一〇日(休日の場合は繰上)に全額を支給する。
(二五条・労働基準法三七条所定の割増賃金)
一ヶ月間の超過時間を次の区分毎に累計し、分単位まで計算する。
(1) 午前五時以降午前八時まで 一六八分の一・三(三割増)
(2) 午後四時以降午後一〇時まで 一六八分の一・二五(二割五分増)
(3) 午後一〇時以降翌午前五時まで 一六八分の一・五(五割増)
(4) 休日出勤 二四分の一・四(四割増)
(5) 週休二日制による土曜休日出勤 二四分の一・三五(三割五分増)
(6) 年末年始の休日出勤 二四分の二・〇(一〇割増)
(二六条・有給手当)
有給休暇は出勤とみなして計算し、直後の賃金支払日に有給手当を支払う。
4 本件契約は、原告が被告のために従属的に労働を提供する契約であるから労働契約である。したがって、請求原因3の被告就業規則は、原告に対しても適用がある。
5 原告と被告は、本件契約を締結するに際し、原告の勤務時間を午後七時から翌日午前六時までとし、うち午前零時から午前四時までを仮眠時間とすることを合意した。
6 本件契約に基づく原告の昭和六四年一月一日から原告退職の日である平成五年三月末日までの間の賃金のうち本給の月額は、次のとおりである。
(1) 昭和六四年一月ないし平成元年三月 一八万二七六〇円
(2) 平成元年四月ないし平成二年三月 一八万八七六〇円
(3) 平成二年四月ないし平成三年三月 一九万八七六〇円
(4) 平成三年四月ないし平成四年三月 二〇万九七六〇円
(5) 平成四年四月ないし平成五年三月 二二万〇七六〇円
7 原告は、本件契約に基づき、別紙一(略、以下同じ)に記載のとおり、昭和六四年一月一日から平成五年三月三一日までの間、被告ローリー部において勤務した。
8 (割増賃金請求の根拠)
原告の労働時間は、七時間であるので、七時間目から八時間目までの時間外労働は法内残業となる。しかし、被告就業規則によれば、被告従業員の労働時間(実働時間)は七時間であり、法内残業に対しても割増賃金を支払うこととされている。したがって、原告は、被告に対し、法内残業部分につき割増賃金の請求権を有する。
また、被告就業規則によれば、被告従業員に対しては、休日(日曜日)以外の法内休日労働についても割増賃金を支払うこととされている。したがって、原告は、被告に対し、法内休日労働について割増賃金の請求権を有する。
9 (割増賃金額)
原告の労働時間について被告就業規則をそのまま適用すると、不合理な事態が生ずる。そこで、被告就業規則を合理的に解釈してその適用されるべき割増賃金の率を考えると、次のとおりとなり、この割増賃金率を原告の労働時間に適用すると、原告の有する割増賃金請求権の額は、別紙五ないし八記載のとおりとなる。
(1) 通常の労働時間内の深夜業 二割五分増
(2) 時間外の深夜業 五割増
(3) 休日出勤 四割増
(4) 週休二日制による土曜休日出勤 三割五分増
(5) 年末年始の休日出勤 一〇割増
10 (有給手当請求)
原告は、平成五年二月一九日、被告に対し、同年三月一日から同月二七日までの二三日間の有給休暇届を提出した。
11 (付加金請求)
被告は、原告に対し、労働基準法一一四条本文により、請求原因9の割増賃金のうち、本件訴え提起の日である平成六年二月一日から労働基準法一一四条ただし書所定の除斥期間二年の期間内である平成四年二月一日以降の未払割増賃金並びに請求原因10の有給手当金の合計額三五四万四六七一円と同額の付加金を支払うべきである。
よって、原告は、被告に対し、被告就業規則に基づき、割増賃金六七二万〇四五四円と平成五年三月一日から同月二七日までの間の有給手当金二一万一六〇〇円の合計金六九三万二〇五四円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である平成六年二月一一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金並びに労働基準法一一四条本分所定の付加金三五四万四六七一円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する答弁
1 請求原因1の事実は、認める。
2 請求原因2の事実は、認める。
3 請求原因3の事実は、認める。
4 請求原因4は、争う。
本件契約は、労働契約ではなく、準委任契約である。被告就業規則は、被告に雇用された従業員に対して適用のあるものであって、準委任契約に基づく受任者である原告に対しては適用がない。
5 請求原因5の事実のうち、原告の勤務時間が午後七時から翌日午前六時までの間であったことは認め、その余は争う。
ただし、原告は、被告と原告との間の準委任契約に基づいて勤務していたものであるが、うち午後一一時から翌日午前五時までの間は睡眠時間であった(仮眠時間ではない。)。
6 請求原因6の事実のうち、被告が昭和六四年一月一日から平成五年三月末日までの間、原告主張の各月額をもって原告の本件契約に基づく勤務の対価の計算基礎としていたことは認め、その余は争う。
ただし、請求原因6の月額は、被告と原告との間の準委任契約に基づく報酬額である。
7 請求原因7の事実のうち、原告が平成五年三月一日以降勤務したことは否認し、その余は認める。
ただし、原告は、被告との間の準委任契約に基づき、被告ローリー部の守衛業務の処理のために勤務していたものである。
8 請求原因8は、争う。
9 請求原因9は、争う。
10 請求原因10の事実は、否認する。
11 請求原因11のうち、本件訴え提起の日が平成六年二月一日であることは認め、被告が労働基準法一一四条本文所定の付加金支払義務を有することは争う。
被告について同法一一四条本文所定の付加金を支払うべき違法・有責の原因はない。
三 抗弁
1 (錯誤無効)
被告と原告は、原告の労働に対する対価としては、宿日直手当に相当する部分全部を含むものとして支払うとの約定で本件契約を締結したのであり、仮にこれ以外に割増賃金を支払うべきであるとすれば、被告が原告と契約を締結するはずがないのであるから、仮に本件契約が労働契約であったとしても、本件契約は、要素の錯誤により無効である。
2 (就業規則不適用の合意)
被告と原告は、本件契約締結に際し、原告に対しては被告就業規則を適用しない旨を合意した。
3 (権利失効又は権利濫用)
原告は、昭和五七年一月以来一一年あまりの長期にわたる在職中、被告に対して割増賃金を請求することが一回もなかった。そのため、被告は、本件訴訟のような請求を受けるとは全く考えず、毎年四月には対価を増額する措置をとってきた。原告が右のような被告の信頼を裏切り、退職後になって、原告の一方的な契約解釈を押しつけてその請求権を行使することは、権利の濫用であり、信義に反して許されず、かつ、原告の請求権は、権利失効の理論により消滅した。
4 (消滅時効)
被告は、原告に対し、本件第九回口頭弁論期日(平成七年三月三日)において、本件割増金債権につき、労働基準法一一五条所定の二年の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
四 抗弁に対する答弁
1 抗弁1の事実は、否認する。
2 抗弁2の事実は、否認する。
被告就業規則中には、原告のような監視員につき就業規則の適用を除外することを予定した規定はなく、また、被告は、原告の労働につき労働基準法四一条所定の許可を得ていない。
3 抗弁3は、争う。
4 抗弁4の事実は、認める。
五 抗弁4に対する再抗弁
1 (時効中断・口頭による催告)
原告は、被告に対し、ことある毎に割増賃金の計算及びその支払を請求してきた。
2 (時効中断・書面による催告)
原告は、被告に対し、平成五年五月一九日付及び同月二一日付内容証明郵便により割増賃金の請求をなし、この内容証明郵便は、そのころ、被告に到達した。
3 (時効中断・調停申立による催告)
原告は、平成五年五月二五日、原告を申立人及び被告を相手方として、本件割増賃金の支払を求める民事調停を墨田簡易裁判所に申し立てた。
4 (時効中断・証拠保全申立による催告)
原告は、平成五年九月二一日、本件訴訟の提起を準備するため、原告を申立人とし被告を相手方として、千葉地方裁判所に証拠保全申立をなし、同証拠保全決定(千葉地方裁判所平成五年(モ)第八二八号)は、同年一一月二日、被告に送達された。
5 (消滅時効援用権の濫用)
賃金債権が短期の消滅時効期間の経過により時効消滅すること、原告及び被告の従前の態度等に鑑みると、被告の消滅時効援用は、権利の濫用に該当する。
六 再抗弁に対する答弁
1 再抗弁1の事実は、否認する。
2 再抗弁2の事実は、否認する。
3 再抗弁3の事実は、認める。
4 再抗弁4の事実は、認める。
ただし、証拠保全の申立は、時効中断事由としての催告には該当しない。
5 再抗弁5は、争う。
七 再抗弁3に対する再々抗弁
原告は、平成五年七月二〇日、再抗弁3の調停申立を取り下げた。
八 再々抗弁に対する答弁
再々抗弁の事実は、認める。
第三証拠関係
証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録に記載のとおりであるから、これらを引用する。
理由
一 (本件の争点等)
1 請求原因1の事実(被告の地位等)、請求原因2の事実(本件契約の締結)、請求原因3の事実(被告就業規則の存在)及び原告の勤務時間が午後七時から翌日午前六時までであったこと、請求原因7の事実のうち、原告が昭和六四年一月一日から平成五年二月二七日までの間、本件契約に基づいて被告に対し労務を提供したことについては、いずれも当事者間に争いがない。
2 本件の最初の争点は、本件契約が(ママ)労働契約性の有無である。そして、本件契約が労働契約であると認められる場合には、原告の割増賃金請求権の有無が第二の争点であり、この第二の争点の判断過程において、被告就業規則中の割増賃金に関する規定等の適用の可否及び消滅時効の成否等が副次的な争点となる。また、本件契約が労働契約である場合には、原告の有給休暇手当請求権の有無が第三の争点である。
二 (原告及び被告間の契約の労働契約性及び被告就業規則の適用の有無について)
1 宿直日誌(<証拠略>)、給与明細書(<証拠略>)、原告の陳述書(<証拠略>)、(人証略)の証言、原告本人尋問の結果に弁論の全趣旨を綜合すると、原告の本件契約に基づく勤務内容は、被告ローリー部所在地でのタンクローリー車の入庫誘導、防犯・点検のための事務所・敷地の巡回、防犯装置作動時の対応等の監視、閉門以後の事務所内事務等であったこと、右業務内容については、原告の裁量によることのできる部分がなく、基本的には、被告の指示によって業務内容が決定されていたこと、勤務時間については、原告の裁量の余地は全くなかったこと、かつてタンクローリー車のトルエンの窃盗犯が増加した時期においては、被告が原告に対して見張りや警察への連絡の指示を行っていたこと、業務用の夜光チョッキ等は被告から支給されており、その他の業務用の道具類も被告から支給されていたこと、給与は、年毎に改定されてきており、昭和六四年以降は請求原因6のとおりに増額されてきたほか、通勤手当も支給されてきたこと、原告の給与からは被告によって源泉徴収がなされ、社会保険料も控除されてきたこと、以上の各事実が認められる。
2 右認定事実によれば、原告の勤務場所、勤務時間及び勤務内容において原告に裁量の余地はなく、時間的・場所的な拘束の下に原告が労務を提供してきたものであり、突発的な事態に対する個別具体的な対処についても被告の命令に従うことが要求されており、これに対する対価の金額決定及び支払形態も通常の労働契約における賃金支払と異なるところがないことが明らかである。したがって、被告と原告との間には、労務提供を主たる内容とする本件契約に基づく使用従属関係があったものというべきであって、本件契約の法的評価としては、これは労働契約に属するものと認めるべきである。
3 被告就業規則(<証拠略>)によれば、原告のような業務を担当する者につき被告就業規則の適用を排除すべき旨を定めた規定が存在しないことが認められる。そして、右のとおり、原告と被告との間の本件契約は、労働契約であり、原告は、被告の従業員たる地位を有する。したがって、本件契約の性質及び原告の勤務形態等から適用の余地のない規定又はその適用が不合理であるような規定を除き(被告就業規則中の割増賃金に関する規定とりわけ割増率に関する規定をそのまま原告に適用すると、却って不合理なことになることは、原告も明らかに自認するところである。)、原則として、原告に対しても被告就業規則が適用されるものと判断する。
3(ママ) この点に関し、被告は、本件契約は準委任契約であって労働契約ではない旨を主張する。
たしかに、労働協約(<証拠略>)、(人証略)の証言及び原告本人尋問の結果に弁論の全趣旨を併せれば、被告には、被告従業員によって組織された労働組合である運輸労連東京江東運送労働組合が存在し、被告と同組合との間で労働協約が締結されていること、同協約二条には、部課長以上の者、会社の機密に関する事項を扱う者、試用期間中の者、その他会社と組合との協議の上特に認めた者を除き、被告の従業員は、同組合の組合員でなければならない旨が規定されていること、同協約三条には、会社は組合を脱退又は除名された者につき、引き続き雇用し、あるいは雇い入れない旨が規定されていること、同協約八条には、被告従業員の定年を満六〇歳とする旨が規定されていること、一方、原告は、大正一〇年三月二八日生れであり、本件契約当時既に満六〇歳を超過していたこと、原告は、被告従業員によって組織された労働組合には加入しておらず、そのため、原告の給与から組合費が控除されることもなく、また、同協約二条に適用除外として定める協議もなされていないこと、以上の各事情も認められるところである。そして、このような事情に着目すれば、原告が被告の通常の(定年前の)従業員と全く同様の待遇を受けるべき権利を有するような法的立場にある者であるとは限らないということまでは認めることが不可能ではない。
しかしながら、先に認定のとおりの本件契約に基づく原告の勤務実態等に照らすと、右のような労働協約の存在や原告が定年年齢を超過した年齢時に本件契約を締結したこと等の事情をもっても、原告と被告との間の本件契約の法的性質が労働契約に属するものであると判断することの妨げとはならない。また、本件契約及びこれに基づく労務の提供形態においては、準委任契約に固有の要素としての労務提供者の独立性及び裁量性がなく、労務提供の対価の支払についても、準委任事務としての報酬の金額決定及び支払形態とも著しく異なる様相を呈するものである以上、本件契約を準委任契約であると判断することはできない。
4 他方、被告は、宿日直手当に相当する部分全体を含むものとして支払うとの約定で本件契約を締結したことを理由に、本件契約が錯誤により無効である旨を主張する。
たしかに、本件契約に際し、原告と被告とが通常の基本給と割増賃金とを明確に区別・認識した上で契約締結に至ったものではないことは、原告も明らかに争わないところである。
ところで、給与明細書(<証拠略>)、給与支給明細書(<証拠略>)によれば、原告が被告から支給されていた賃金には、「基本給」と「通勤手当」の区分しかないことが認められる。そして、この基本給のうち、どの部分が被告主張のような宿日直手当部分に相当するのかを判別することは、全くできない。また、被告原告間において、労働基準法所定の計算方法による割増賃金の額が被告の認識するところの宿日直手当の額を上回る場合に、その差額を支払う旨の合意がなされていたことの主張・立証はなく、実際問題として、被告主張のような宿日直手当込みの賃金総額の定めがあるのみでは、右差額計算をすることが不可能であるから、結局、仮に被告主張のような賃金支払合意がなされたのだとすると、その合意部分は、労働基準法三七条三項に抵触するものとして無効である。
そして、右賃金合意部分は、たしかに労働契約の本質的部分を構成するものであって、意思表示の要素に該当するものではあるが、労働契約の特殊性に鑑み、賃金支払合意部分に関する意思の齟齬があっても、そのことが労働契約である本件契約全体の錯誤無効をもたらすことはなく、現実に、原告が本件契約に基づく労務を提供し、被告がこれを受領したものであることについては当事者間に争いがないのである以上、その労務に対する対価相当額は、不当利得金としてではなく、賃金として原告に支払われてきたものであるし、支払われるべきものであると判断する。
5 更に、被告は、原告の本件請求が権利濫用又は信義則違反であり、権利失効の原則を適用すべきである旨を主張する。
しかしながら、一介のしかも高齢の労働者に過ぎず、労働組合にも加入しておらず、専ら夜間の勤務に従事していた原告が、正確な法的知識に裏付けられたものとして割増賃金の請求をしたり、被告との間で十分かつ公平に賃金交渉をしたりすることを期待することは事実上不可能であり、また、被告にとって原告の本件請求が不当であるという意識を持つのは、被告が労働基準法の趣旨を誤って理解していることの結果に過ぎず、その原因は、専ら被告側にある。そして、実質的に見て、労働契約という月々ないし日々債権が発生する継続的契約の特殊性に鑑み、被告主張のような権利濫用等に該当すべきような場合とか相当長期間にわたる平穏かつ安定した状態を遡及的に覆すような権利行使がなされた場合の弊害を一定限度で防止するための法的制度として、法は、労働債権については、短期消滅時効の制度を設ける一方、右短期消滅時効期間が経過しない範囲内での権利行使については、原則として、権利濫用、信義則違反ないし権利失効の原則の適用はないことを保証(ママ)しているとも言い得るのである。しかも、被告は、本件における抗弁として短期消滅時効を援用しており、かつ、他に権利濫用等の主張を採用すべき特段の事情につき主張・立証はないのである。右のような諸点に鑑みると、原告の本件請求は、権利の濫用にも信義則違反にも該当せず、また、権利失効の原則が妥当するものでもなく、結局、被告の右主張は、採るを得ない。
6 なお、本件において、原告の本件契約に基づく労務提供につき、労働基準法四一条三号所定の許可があったことについては、主張も立証もない。
三 (消滅時効について)
1 被告が本件口頭弁論期日において労働基準法一一五条所定の二年の短期消滅時効を援用したこと、本件訴えの提起日が平成六年二月一日であることは、いずれも当裁判所に顕著である。
2 原告は、時効中断事由として縷々主張するが、まず、原告が口頭による催告をしてきた旨の主張については、そのような事実を認めるに足りる証拠はなく、書面による催告については、本件訴え提起前六ヶ月以内の催告ではないから、主張自体失当であり、調停申立による催告については、本件訴え提起前にその調停が取り下げられたことにつき当事者間に争いがないから、適法な催告としての効力を有せず、証拠保全申立による催告については、これが民法一五三条所定の催告に該当すると解釈すべき余地はないので、主張自体失当である。
また、原告は、被告による本件消滅時効の援用が権利の濫用に該当する旨を主張するが、労働債権の消滅時効制度に関する前記のような趣旨に鑑みると、労働債権の消滅時効の援用が権利の濫用に該当するようなことはあり得ないものと判断すべきであり、本件において、これと別異に解釈すべき要素は存在しない。
3 したがって、本件請求にかかる割増賃金債権のうち、平成四年一月三一日以前の部分は、労働基準法一一五条により時効消滅した。
四 (割増賃金請求について)
1 まず、原告の労働時間につき判断すると、原告の日々の勤務開始時刻が午後七時であり、勤務終了時刻が翌日午前六時であることは、当事者間に争いがないが、被告は、午後一一時から翌日午前五時までの間は睡眠時間であった旨を主張する。
しかしながら、午後一一時から午前五時までの間、原告は、時間的にも場所的にも拘束された状況下にあり、かつ、具体的な状況ないし必要に応じて、その時間帯においても防犯装置への対応や盗犯防止の見張り等の業務が求められ、少なくとも、そのような業務ができるようにしておくことが要求されているのであって、本件契約に基づく労働から解放されているわけではない。
したがって、右時間帯における原告の勤務は、睡眠時間ではなく、労働時間として扱うべきである。
2 次に、被告就業規則二五条の適用の有無につき判断すると、前記判示のとおり、原告は、被告との間において労働契約関係にあるものであるから、原則として、原告に対しても被告就業規則の適用があるといわなければならない。
しかしながら、被告就業規則を仔細に検討すると、被告就業規則は、専ら昼間労働に従事する従業員を前提にするものであって、それ故に、深夜労働に対する割増賃金率等も比較的高率に定められており、本件原告のような専ら夜間勤務に従事する従業員の存在を前提にしてはおらず、被告就業規則の他の条項全部及び前記労働協約上の諸規定を綜合的に検討してみても、原告のような専ら夜間勤務に従事する従業員に対する割増賃金の支払を予定するものではないことが認められる。
かかる場合、原告主張のように、被告就業規則中の関連規定を類推適用することも一つの考え方ではある。しかし、右に判示のとおり、被告就業規則二五条は、専ら昼間労働に勤務する従業員を前提にするものであって、原告のように専ら夜間勤務に従事し、そのため、必然的に休日の前日午後七時に勤務を開始する場合には暦上の休日にまたがって休日である翌日午前六時まで勤務することにならざるを得ず、また、そのようなものとして労働契約を締結している者への適用を予想していない。しかも、右と同様の理由により、原告の労働に対しては、日々の勤務開始から勤務終了までの全労働部分(暦上の休日にまたがる労働部分を含む。)のいずれについても基本賃金が支払われていると認めるべきであるが、この点においてもまた、原告の労働形態は、専ら昼間労働に従事する被告従業員とは、その様相を大きく異にするものであると言わざるを得ない。したがって、本件原告の時間外労働に対して被告就業規則二五条所定の割増賃金率を類推適用すべき余地はないものと判断すべきである。
要するに、本件においては、原告の深夜労働等に対する割増賃金の率を規律するための労働契約ないし就業規則に欠缺が存在することになるのであるが、この欠缺を補充するための法として、原告の日々の労働時間のうち労働基準法三七条三項所定の午後一〇時から翌日午前五時までの七時間につき、同条項所定の最低割増賃金率である二割五分を一律に適用するのが最も合理的である。
しかし、本件その余の請求部分は、本件契約上及び被告就業規則上も合意による請求権の発生を認めることはできず、また、合意の不存在を補充するための法規も存在しないのであるから(本件が労働基準法三三条又は三六条のいずれの場合にも該当せず、したがって、同法三七条一項の適用外の事案であることは、ここまで判示したところにより明か(ママ)である。)、いずれも理由がない。
3 そこで計算すると、原告の平成四年二月一日から同年三月三一日までの間の労働時間のうち本件割増賃金の計算対象となる時間は合計三四三時間(四九日×七時間)、この期間中の基本給額は月額二〇万九七六〇円(時間単価・一二四九円)であり、原告の同年四月一日から平成五年二月二七日までの間の労働時間のうち本件割増賃金の計算対象となる時間は合計一七九九時間(二五七日×七時間)、この期間中の基本給額は月額二二万〇七六〇円(時間単価・一三一四円)であるから、それぞれ時間数に時間単価を乗じた額に前記法定の最低割増賃金率である〇・二五を乗じた額を合算すると、被告から原告に対して支払われるべき割増賃金の合計額は、六九万八〇七三円となる(一円未満四捨五入)。
343×1249×0.25=107101.75
1799×1314×0.25=590971.5
107101.75+590971.5=698073.25
五 (有給休暇手当請求について)
1 原告は、平成五年二月一九日、被告に対し、同年三月一日から同月二七日までの間の有給休暇届(二三日間)を提出した旨を主張し、事前届出をした従業員に対しては有給休暇手当を支給する旨の規定が被告就業規則中にあることは、当事者間に争いがない。
しかしながら、原告の右主張を裏付ける証拠は、原告本人尋問の結果以外に特になく、しかも、右本人尋問の結果部分は、(人証略)の証言に照らし採用できず、却って、同証言及び弁論の全趣旨によれば、原告は、平成五年二月末日をもって被告を退職したものと推定される。
2 したがって、原告の本件有給休暇手当請求は、債権発生のための前提を欠くものとして、失当である。
六 (付加金請求について)
1 ここまで認定の諸事実に併せ、(人証略)の証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を綜合すると、原告は、本件契約に際し、賃金等についても納得ずくで本件契約を締結したものであり、当初は、賃金の額等についても格別の不満もなかったが、平成三年ころから、仮眠時間帯における実労働が増加したことなどから賃金に不満を持つようになったこと、被告は、本件契約当初から契約終了時まで、ことさら原告の賃金を低額に押さえるために意図的に基本給部分と割増賃金部分とを区別しないで賃金を支払ってきたわけではなく、単に労働基準法その他の労働法規及びその運用に関する正確な知識を欠如していたことの結果であるのに過ぎないことが認められる。
2 そして、右諸事情に併せ、現実に原告に対して支払われてきた賃金が著しく低額であるとは言えず、被告の主観的認識のみを前提にすれば、本件契約に関する被告主張のような法律構成ないし割増賃金を支払う必要性がないとの認識を持っていたことそれ自体が必ずしも不当であるとは言えず、仮に本件契約当初から、基本給部分と割増賃金部分とを明確に区分して賃金合意がなされていたとすれば、被告が原告から本件請求を受けることもなかったであろうと推測されることその他本件に顕れた一切の事情を考慮し、労働基準法一一四条に定める付加金制度の立法趣旨等に鑑みると、本件において被告に付加金の支払を命ずるのは酷であり、相当ではないと判断する。
七 (結論)
以上によれば、原告の本件請求のうち、割増賃金六九万八〇七三円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である平成六年二月一一日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分は理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条、八九条を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結の日・平成八年九月三〇日)
(裁判官 夏井高人)